藍青


 広すぎるともいえるベッドは何時からか男の好まない色合いへと変わっていた。豪放磊落と言われる男だったが、その実、あまり華美なものを好まない武人のような性格をしていた。その所為か否か、男はここ最近深い眠りに就くことができなかった。いや、その所為だけではないのは男が1番知っている事だった。


――バート…この森を抜けると何があるか、君は知ってるかい?

 寝付けぬ中、無理やり眠ろうとすればするほど、キャンドルだけの薄明かりの中、誰よりも聞き知った声が聞こえてきた。声の主は森の向こうにある小高い丘を指して言った。彼が指した先にあるのは、計算された景観を誇る白亜の街並みが一望できる小高い丘だった。

――生まれたのがこの国で良かったと、やがて騎士として、この国を守るのだと思うと、僕はいつも何よりも誇らしい気持ちになる…やがて君が治める国だよ。

 夢の中とは思えないほど涼しげな風が短い金髪を攫って行った。後ろでようやく縛れる程の金髪を眺めながら、いつも、もっと伸ばせば良いと思っていたのは、他でもない男自身で、誰のものよりも美しく感じた髪が流れる度に、触れたいと密かに思ったのも男自身だった。

――レイ…
「レイノルド…」

 夢の中の金髪の少年の隣に立つバートと呼ばれた少年の声と男の現実の声が重なった。けれども、幸せすぎた夢の中とは違い、現実の男の薄暗い部屋に少年の、レイノルドの姿はなかった。それは部屋の中だけではなく、もうどこにも。栄華を極めたと誉れ高いノルディマ王国の広き王城のどこにも。

 アルバートは夢から覚めることなく、けれどもそれが現実ではないと分かっている故に幸せな夢を見ることもできずに、ただ苦しいだけの夜を過ごした。それは、レイノルドが王城を辞して、もう何度目かの夜だった。

――何も聞かないでくれ…後で、自分で解決できることだから…けれど、どうか今だけ助けてくれ…こんな無様な姿、本当は君にさえ見せたくない。

 アルバートの耳に掠れた、けれど甘い声が響いた。それはその後に必ず続く、漣のようにアルバートの心を揺さぶっていく夢だった。海よりも深いサファイア色の瞳がアルバートを見つめる。夢の中ですっかり王に変わったアルバートに、レイノルドがゆっくりと唇を重ねてきた。唇が触れただけで熱が分かるほどに熱い体。決して大きくはないのに揺れている事が確かに分る吐息。後にも先にも1度しか聞いたことのない、甘く熱っぽい声でアルバートの名前を呼ぶ、声。
 
 夢は、まるでレイノルドが手を伸ばせば触れられる場所にいるかのように現実的で、残酷だった。達する時にアルバートの顔を愛おしそうに両の掌で包み、微笑む姿さえ、全て夢なのだから。

2


 執務室から見える広々とした庭、先々代の国王が後宮に住まう愛妾の為に作らせたという白亜宮を眺めても、それらがアルバートの心を慰めることはなかった。美しい花々が咲き誇る庭も、白亜宮の先にある王軍の騎士たちが暮らす宿舎も、眺めれば全て金髪の凛とした佳人を思い出させるばかりで、広々とした庭の先にある、不落の門、王城を守る白亜の正門はまるでアルバートを責めるように荘厳に聳え建っていた。

 細工を凝らした机の上に乗せられた山積みの書類に目を通し、それらを許可か却下し、形式に沿って謁見を国内外と行う。まるで機械か何かのように執務をこなしていく。それが今のアルバートだった。

 国を盛り上げるためにと国王主催の国民武道会や、少数の騎士のみ引連れて僻地までの見分の旅、織物が産業である国色をいかした大会。全て稀代の名君と呼ばれるアルバートが初めて行い、即位してから1度も欠かさずに行ってきたものだった。しかしそれもここ2年の間行われなかった。

王の傍で仕える貴族たちだけではなく、国民の全てが王の事を聞き及んでいた。
王は心が折れてしまったのだと。美しい姫による姦淫という最悪の裏切りによって、と。

 事の沙汰は一体どこから漏れたのか、けれども直ぐに国全土に渡り知ることになってしまった。美姫で知られていた王唯一の姫であり、正妃であったリリアが王直属の部下、レイノルドと姦通したのだと。

 発覚したのは、白昼だった。普段は訪れない王が珍しくリリアへの贈り物をするために直接正妃の部屋を訪れた。しかし、そこにはリリアだけではなく王が誰よりも信頼していたレイノルドが居た。それらは王だけではなく、王の後ろに着いていた傍仕えたちにも知られることとなった。

 日差しから隠れるようにカーテンが閉められた薄暗い部屋の中、見紛う事なき美しい金髪をもったレイノルドがリリアをベッドの上で組み敷いていた。リリアは拘束されてはおらず、口も自由なままだった。それは双方の了解の元とも取れた。しかし扉が開いた瞬間に助けに来てくださったのですか?と、涙ながらに問うたリリアに、完全な密会とは言い難いと周りは知らしめられた。例えそれが狡猾な女の演技だったとしても。

 
 
 アルバートは書類にサインするのは止め、机の上に乗ったサファイア色をした指輪を眺めた。王の机にあるのは不自然な、どうみてもガラス玉にしか見えないそれを、けれど国中のどんな宝玉に触れるときよりも丁寧に手に取った。
 もう何年になるのかも分らないほどの昔のものだった。城を抜け出しては忍んで街へと行き、遊びまわった時代のものだった。まるで囚われの身のように城の中しか見たことがなかったアルバートが自由と、その生活と運命に誇りを持てた時だった。
 生真面目で通っている彼が誰よりも王城の隠し扉に詳しくて、城下町への抜け道に詳しかった。周りには見せない、少年らしい悪戯めいた顔で微笑みアルバートを外へと誘う姿が好きだった。

 海よりも深いサファイア色。紛う事がない程に見慣れた、けれど普通ではめったに見られない美しい青色の瞳。思い出せば思い出すほどに、どうして今までもっと大切にしてこなかったのかという、どうしようもない思いがアルバートの心の中で荒れた。

「レイ…」

 扉を開き、ベッドの上の2人を見た時の、まるで目の裏が燃えているかのような激情。それが果して自分の妃を寝取ったからだったのか、アルバートには明言できなかった。否、考えれば考えるほどあの時の思いはそうでなかったのだと心が今更ながらに叫んだ。

 成人してからは特に、騎士らしく、乱れたところなど微塵もないのが常であったレイノルドが金髪を乱し、上着を脱いでいた。禁欲的なはずの騎士団が纏う白いシャツの下には女がつけた痕が残っているのではないかと考えた時、アルバートは冷静な判断を失った。レイノルドに何も聞かず、兵を呼ぶこともなく、ただ告げた。出て行けと。

 レイノルドに告げた時に、弁明してくると思っていた。言葉すら碌に発せられないほどの怒りの中で、けれどあの時、確かにアルバートはレイノルドが何か、そう、言い訳でも良いから何かを言ってくれる事を期待した。けれどもレイノルドは無言のまま、体を引きずるようにしてゆっくりと部屋を辞した。

 せめてもう1度、自分のもとを訪ねてくると思ったレイノルドが、鞄一つだけを持ち、雨の中、白亜の門へと背を向けて歩く様を見たとき、アルバートの心の中を何かが引き裂いた。音もなく静かに過ぎ去ったその傷が今尚アルバートを苦しめていた。

「追っていたら…いや、もし出て行けなどと言わなければ…」

 何度も帰結した言葉を吐いた。けれどもアルバートが時を戻すことは当然叶わないし、判断を誤ったアルバートを責めるように、アルバートがどれほど力を注いでレイノルドを探そうとしても、見つかることはなかった。

 見た目の麗しい金髪碧眼の青年。いくら大国、広き領土といえどもレイノルドが軍力を率いても見つからない理由が分からなかった。レイノルドが去ってすぐに後悔し、捜索を開始しても一向に見付からず、抑えようのない気持ちを事の原因のリリアに向けた。もしかしたらレイノルドが最後に抱いたかもしれない細い女の腰を壊すように荒々しく何夜も抱いた。けれどアルバートの心は偽物を抱くたびに悲鳴を大きくし、やがて訪れた、どうしようもない空しさから目を背ける様にしてリリアを白亜宮から最も遠い南の宮へと移した。その頃にはリリアを信じるのどころか、目に入るだけでも感情が逆なでされた。


 嵌めることが叶わない、子供用のおもちゃの指輪。それ1つと、数え切れないほどの、共に居た時の記憶がアルバートに残った。

3


 いつもと同じように執務を行っていたところ、撤去する予定の教会が立ち退き命令を無視しているとの嘆願書が出てきた。ノルディマ王国には現在宗教の強制はなかったが、王制排撃論を掲げるような宗教は認められていなかった。書類によれば中でも過激派と言われる者たちがここ1、2年教会に集まっているらしく、元々は太陽神を信仰する敬虔な信徒たちが通う教会だったものが今では過激派の巣窟となっており、そのために住民からの依頼で前に撤去命令を出したところだった。

 アルバートにも記憶があり、確か半年か1年ほど前に命令を出したものだったと思い至った。書類によれば善良な住民が無力であるのを良い事に、その者たちは一向に立ち退くようすを見せないとの事だった。このままでは街全体にかかわる問題になりかねないとの事だった。

 ダーブと言われる街であり、王城などがある首都カラムからは馬で小1時間ほどの小さくはない隣町だった。レイノルドが去ってからは碌に馬にも乗ってもいなかったと考え、アルバートは自らも行くことにした。

 あまり大事にしないようにと、けれども身の安全のためにも信頼のおける近衛兵の小隊を連れて問題の教会を訪れた。街並みはノルディマ王国らしい白亜の建物が建ち並び、教会だけが青い屋根を持っていた。決して小さくはない教会へと近衛と王が足を進めた。扉には鍵もなく、普通の教会のように入ることができた。

 豪華ではないが美しいステンドグラスから7色の光が差し込み、白色の絨毯を輝かせていた。祭壇には太陽神の偶像が置かれており、一見にして何の変哲もないような教会だった。近衛もアルバートも首をかしげる中、太陽神の足もとに何か光るものを見つけた。ほんの小さなものなのに、なぜかアルバートは見つけ、しかも気にとめた。太陽神が纏う床まで引きずる青色のローブの上にある、一本の銀糸。それは銀髪だった。
 どうしてこのような所に、とアルバートはそれを拾い上げた。手に取って見ると銀髪、というよりも白髪だった。過激派と言うのは間違いで礼拝に来た老人のものなのかと、アルバートは思いながら、ふと壁を見た。太陽神の横の壁に少しだけ亀裂があった。白い壁の亀裂は目立っていて、なぜ今まで気づかなかったのかと思うほどだった。

「陛下…」
「よい、私がやる」

 言いながら壁を押すと、思った通り壁は奥へと移動した。ずいぶん深くまで移動した壁に、空いた空間へと足を踏み入れれば左側に通路があった。思った通り隠し扉だったようだ。
アルバートは指だけで近衛兵の隊長に指示し、隊長も頷き、自身ともう1人を連れて中へと先に入った。アルバートがそれに続き、その後に2名ほど兵が続いた。

 薄暗い通路を過ぎると、やはり他の部屋へと続いていたようでまた扉があった。扉の奥を伺わずとも、全員に聞こえる位の声が響いてきた。決して大きくはない、けれど隠すには甘すぎる、紛う事なき喘ぎ声だった。甘い言葉からは固有名詞などは一切漏れてこず、ひたすらに掠れた鳴き声が聞こえてくるばかりだった。組み敷いてるはずの者も、思わずアルバートでさえ熱を意識してしまうような中性的でいて、この上なく甘い声に夢中なのか余計な喋り声はしなかった。

 アルバートは隊長と目線を合せ、1息のんで扉を開いた。薄暗かった通路とは反対に溢れるほどの光が一気に放たれた。真っ白にぼやける視界の中で、しなやかな白い背と、それ以上に白い髪が目に映った。白色の持ち主は屈強な体の男の上に跨っていた。男が慌てて己の上に居た者をどかし、寝台から降り、逃げようとしたのを近衛兵が迷わず捕まえた。艶やかな声を上げていた者は動く気配がなく、背をむけたまま、寝台に座っていた。

「よい、その者からは私が尋問しよう」
「ですが」
「あの細腕にけがを負わされるほど私は無力か?」
「いいえ…では、まずこの者を外へと…」
「ああ」

 隊長が敬礼をして去っていった。アルバートは気にするでもなく、後ろから見れば何の色も持たないベッドの上の青年に目を向けた。華奢だが、けっして低くはない身長の、肩過ぎ程の白髪を持つ青年だった。先ほど神像の前に落ちていた白髪は彼のものかと思いながらアルバートは近づき、声をかけた。

「お前は…」
「…?」

 アルバートの声に反応した青年がくるりとこちらを向いた。ただ1人以外には見たことない程に整った怜悧な美貌に、海よりも深いサファイア色の瞳。

「レイ…?…レイノルドなのか?!」

 大股で青年に近づき、膝をついて寝台に座ったままの青年の肩を強く掴んだ。間近で見る青年の顔は少し瘠せ、影をつくっていても間違いようのないレイノルドのもので、アルバートが焦がれて仕方がなかったサファイアの瞳が不思議そうにアルバートを見つめ返してきた。気品と知性を持ち合わせた静かなレイノルドの瞳とは違った、意志の強さが全く見られない瞳は、けれどアルバートが探していたものだった。

「レイ、レイノルド…ようやく会えた…」

 言葉にさえならない思いに、どうしようもなくなりレイノルドの体をかき抱いた。2年前よりも痩せた体や、色を失った白髪、ガラス玉のような青い瞳。けれども2度と会う事が出来ないと思ったレイノルドとの再会にアルバートは思いが溢れて止まらなかった。

 しばらくの間抱きしめた後、レイノルドの顔を確かめるようにしてなぞった。もう一度、レイノルド、と名前を吐くと青年が幼い仕草で小首をかしげた。

「レイノルドって…誰?…それにあなたは誰?」

 呆然と表情を失ったアルバートを不思議そうに見やったレイノルドは、2年前にアルバートが捨てたレイノルドではなくなっていた。髪の色も、目が持っていた彼らしさも、それ以上に、何よりもアルバートが大切にしたかった彼との記憶さえ失っていた。

4


 正妃が騎士を連れてどこかへ行く時、必ず屈強な、ほとんどの騎士のような体格のものではなく、しなやかな体格の若い騎士を選んでいた。
 
 幼い時には乳母兄弟として、即位してからは誰よりも信頼できる友であり、同志として隣にいたレイノルド。見なれたはずの横顔にどうしようもなく心を揺すられ、特に誰かに薬を飲まされたのだと、苦しげに訴えてきた時に衝撃を受けた。

 全て知っていたのに自分を謀ろうとした自分が何よりも情けなく、不甲斐無かった。アルバートは何度も悔やんで時が戻ればと、もしもレイノルドが何もなかったかのように常のように颯爽と馬に乗って戻ってきたらと、淡い夢のように願っていた過去の自分を殺したくなった。



 
 執務を終えた後、アルバートは自室へと戻り、寝台へと向かった。別れてから伸ばされ続けていたらしい白髪はもう胸近くまで伸びていた。滑らかな指通りは昔のまま、けれど愛おしかった美しい色だけはなかった。

「お帰り、バート」

 そう言って微笑んでアルバートの首に腕を巻きつけてきたレイノルドを抱き返し、アルバートも寝台の上に座った。レイノルドが呼んでいたように、他には誰にも許したことのない愛称でアルバートを呼び、微笑むレイノルドの顔に一切の翳りはなかった。騎士らしい、潔癖ともいえる性格をしていたレイノルドは教会の中で行われていた凌辱に耐えられなかったのか、それともアルバートがレイノルドを信頼しきれずに激情のまま外へと放り出したからなのか、この時ばかりはアルバートはひたすら自分のせいであって欲しいと願った。

 まるで幼い子供のように純粋で、全てを凪のように受け入れられる今のレイノルド。それとは正反対とも言える、高潔なレイノルド。どうか、清廉な彼が卑しい凌辱によって穢されて死んでしまったのだとは我儘でも思いたくなかった。

 アルバートは疑う事を知らないように微笑んでいるレイノルドの瞼にキスを落した。次に赤みが戻ってきた頬へ、夢で何度も焦がれた薄めの唇に。レイノルドは嬉しそうにバートの抱擁を受け、キスを受け入れた。強請るようにバート、バート、とアルバートの名前を繰り返した。

 アルバートの隣に立つことはかなわなくとも、アルバートの腕の中に戻ってきたレイノルドを強く抱きしめ、アルバートは遅すぎる決意をした。もう誰にも渡さない、2度傷つけたりしないと。


 

 名君で知られたノルディマ王国第14代国王、アルバート・イエル・ノルディマは38歳と若くして王位を自身と同腹の弟へと譲った。それは年の離れた弟、アンガスが20歳を迎えた時の事だった。20年ほどの王位に惜しむ声は止まなかったが、国王は、これからは国の為ではなく愛する人の為に生きたい、と国民の前で最後の演説を行った。静かに国王と王国の行きつく先を見守っていた国民は、そのほとんどが穏やかな国王の表情に納得した。

 正妃の姦淫の後2年、公式の場から隠れるように行事を排した国王は、けれど2年の空白を経て、また行事にも参加するようになった。行事へ顔を出す時には、必ず隣に青いローブをまとった中性的な佳人を連れ立っていたという。彼らは互いをバート、レイ、と呼び合うほど仲睦まじく、国王が返位をした後は、少数の傍仕えと兵だけを連れて共に離宮へ移り、穏やかな日々を過ごしたと、後に伝えられた。

inserted by FC2 system